援助国 A~Z

Angola(アンゴラ)からZentralasien(中央アジア):
10カ国以上の紛争地域や危機的状況にある国々へ支援

ドイツ国際平和村の支援国のリストは、次第に増えてきました。下記の国々では、ドイツ国際平和村は現地パートナー団体と協力して、支援活動を行っています。ベトナムでは、現地プロジェクト活動が成功し、現在は現地の人々によって、運営・管理がなされています。日本は、ドイツ国際平和村が支援を行っている国ではありませんが、ドイツ国際平和村の仲間たちがいる大切な国です。

Afghanistan・アフガニスタン

アフガニスタンへの援助の開始は、1987年にさかのぼります。1990年代、ソ連軍の支援を得ていた政府に代わり、アメリカとサウジアラビアから資金援助を得たムジャーヒディーン政権が成立しました。ムジャーヒデーィン各派の勢力圏争いがおさまらず、イスラム原理主義のタリバンが勢力を強めました。タリバンは、イスラム教の規律やシャリーアというイスラム世界独自の法律を過激に解釈し、押し通していきました。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件後、タリバン政権は、アメリカと有志連合諸国からの攻撃を受け、敗北しました。2004年以降、アフガニスタンは、イスラム共和国となりましたが、2021年8月、タリバンが政権を再び掌握しました。アフガニスタンは、現在も世界の中でもっとも貧しい国の一つです。

1986年から1987年に変わる年末に、ドイツ国際平和村へ援助要請が届きました。それは、アフガニスタンとパキスタン国境近くのペシャワールにある難民キャンプの子どもたちへの医療援助の要請でした。1987年4月、ドイツで治療を受けるために4人の子どもたちが、初めてアフガニスタンからドイツへやってきました。その後、1988年4月までに、さらに10人の子どもたちをドイツ国際平和村は受け入れました。1988年11月には、初めてアフガニスタンの赤新月社と連絡を取り合い、現在まで、協力して援助活動を行っています。1990年にカブールに設置されたドイツ国際平和村の礎石は、アフガニスタン赤新月社が運営する総合病院の一つの中にあります。

アフガニスタンにおける現地プロジェクト活動は、1992年1月にカブールに完成した整形外科関連の建物から始まります。1997年からは、アフガニスタン赤新月社が実施している社会福祉事業「マラストゥーン(平和のための共同体)」を支援しています。マラストゥーンは、50年代の初頭から、身寄りのない人々のために「家」を提供しており、お年寄り、孤児、シングルマザー、心身の障がいを持った人々が住んでいます。ドイツ国際平和村が支援した例としては、衣類の寄付にならび、自給自足を促進するための農業関連の車両の支援です。

整形外科関連の建物は、勢力争いの戦火の被害を受けその設立目的のために使用できなかった時期がありましたが、1998年に再び医療機関として開所しました。のちに、この建物はアフガニスタン赤新月社に移譲され、運営されることになりました。

1998年にはアフガニスタン北部で大きな地震があり、援助物資輸送を行いました。

2003年には、カブールで、ドイツ子ども病院の建設に取り掛かりました。段階的な資金援助を行いました。2003年内に個人に譲渡され、運営が開始されました。2005年には拡張もされました。

2015年には、アフガニスタンで活動する人道援助団体「German Medical Service」の井戸建設事業を支援し、2基の井戸が人々に使用されるようになりました。支援を必要としている家族への暖房設備の資金提供も行いました。また、この団体がアフガニスタンで活動するにあたり必要な医療機器も提供することができました。2018年にも、「German Medical Service」の井戸構築プロジェクトに財政的な支援を行いました。

 

 

ドイツ国際平和村のアフガニスタンでの活動報告(2018年10月発行)

 

 

Angola・アンゴラ

アンゴラ内戦は、2002年に終結しましたが、この内戦がもたらした地雷の危険は、いまだに残っていると外務省が伝えています。内戦後何年経っても、西アフリカに位置するこの国の食糧事情や健康保健状況は、大部分の国民にとって壊滅的です。
国民の半数しか、適切な医療供給と清潔な飲料水を得られません。何千人もの人が、治せるはずの病気(下痢、感染症、血液に関する病気)で、命を落としています。驚くべき高度成長を遂げたにも関わらず、アンゴラ国民の約40%が貧困層に属します。原油やダイアモンドによる富を得られる人はわずかで、ほとんどの労働者は農業を営んでいます。

1994年、以前の現地パートナー団体AADとドイツ国際平和村が、アンゴラの首都ルアンダにあるドイツ大使館からの要請を得て、ケガや病気を抱えた子どもたちへの援助のために協力関係を結びました。こうして、1994年初めに、第一回目となるアンゴラへの援助活動を行ったのです。

アンゴラの現地パートナー団体AADに代わるアンゴラの現地パートナー団体として Kimbo Liombembwaが設立された2001年以降、ドイツ国際平和村はこの団体と協力して活動を行っています。

アンゴラから来る子どもたちは、アフガニスタンから来る子どもに並び、ドイツ国際平和村が支援する子どもたちの中で多くを占めます。

 

 

ドイツ国際平和村のアンゴラ支援について(2023年4月発行)

Armenien・アルメニア

アルメニアは、1991年にソビエト連邦からの独立を遂げました。アルメニアは、現在もナゴルノカラバフ地方をめぐり、隣国アゼルバイジャンとの 紛争が続いています。ナゴルノカラバフは、旧ソビエト連邦アゼルバイジャンに属していましたが、その土地に住んでいる人々の大多数はアルメニア人です。

1988年、アルメニアを大地震が襲いました。そのため、さらに多くの人々が家を失い、掘っ立て小屋での生活を余儀なくされています。アルメニアでも失業率が高く、失業者の多くが貧困層に属します。また、職を求めて外国へ出て行く人が多い現状もあります。

1992年以来、ドイツ国際平和村は、アルメニアの現地パートナー団体「アルメニア・子ども基金」と協力しています。1994年以降、ケガや病気を抱えたアルメニアの子どもたちへ治療の機会を提供するため、子どもたちをドイツへ受け入れています。

また、1996年からは、アルメニアとナゴルノ・カラバフへ向けたパケットアクション活動を始めました。2003年には、現地プロジェクトパートナーの独立事務所を設立しました。2005年には、ドイツ国際平和村が援助しているリハビリテーションプロジェクトが開始され、このプロジェクトは拡張していきました。アルメニアの子どもたちへの医療援助と援助物資輸送も進めました。エレバンのドイツ大使館からも資金援助があり、プロジェクトを行う施設の修復も行われました。アルメニア・子ども基金は、現地プロジェクト活動を一層活発に進め、2010年以降、ドイツ国際平和村は、貧困家庭の肢体障がいを抱える子どもたちへの様々なリハビリプログラムを資金援助しています。理学療法士が子どもたちの家庭に定期的に訪問し、セラピーを行うこともあります。2015年には、リハビリセンターに室内プールを設置し、水を利用した療法を提供しています。加えて、アルメニア現地パートナー団体の新しい車両の資金援助をしました。2017年には、子どもたちの手術費用も援助しました。

 

ドイツ国際平和村のアルメニア支援について(2021年4月発行)

Gambia・ガンビア

ガンビアは、アフリカの中で、最小の国土面積を持つ国です。この国の経済は主に亡命ガンビア人からの寄付や観光業で成り立っています。国民の4分の3が米作農業を営んでいますが、家族が満足して食べられる量にはなりません。そのため、食料輸入が必要不可欠です。国民のほぼ半数が、貧困層に属しています。学校や病院は、首都バンジュール周辺にしかなく、その他の地域では、看護士が住民に医療供給をしているヘルスセンターしかないといった状況です。

ガンビアは、資源が欠如しているために発展できない危機的状況にある国です。

2012年7月、ドイツ国際平和村は、ガンビアから子ども3人をドイツでの治療を提供するために受け入れました。ドイツ国際平和村は、現在も人道援助団体「Project Aid The Gambia」と協力し、子どもたちへの治療援助活動、そして医薬・医療品の援助物資の輸送活動を行っています。現地プロジェクト活動の一環で、2018年、バンジュールに、幼稚園年長組用の教室の建築費用を支援しました。

Gaza・ガザ

2014年夏、再び、近東諸国におけるパレスチナとイスラエル間の紛争が、悪化しました。罪のない子どもたちが犠牲になり、破片で傷ついたり、やけどを負ったり、骨折したりしていました。2014年9月、重傷を負った42人の子どもたちが、パレスチナからドイツへやってきました。彼らは、義肢や治療の跡、そして、生きるための2度目のチャンスを得て、母国へと帰国しました。

ガザ地区は、パレスチナ自治区であり、公式にはパレスチナ自治省の監督下にあります。ガザという名前と地理的条件は、1948年から1949年のアラブとイスラエル間の第一次中東戦争後、イスラエルとエジプトの間で、停戦条約が調印された後に決められました。

Georgien・ジョージア(グルジア)

コーカサス地方では、黒海の港町ポチとバトゥミを通る国際輸送路による経済成長のチャンスが見受けられます。しかしながら、高い失業率と苦しい貧困に人々は苦しんでいます。2008年には、アブハジア地域と南オセチアをめぐる紛争が深刻化し、20万人もの人々が避難しました。ジョージアの多くの被追放民たちは、現在も逆境下で生活しています。

ドイツ国際平和村は、1994年以来、ジョージアの現地パートナー団体(ジョージア子ども基金)と協力して、子どもたちへの医療援助活動を行っています。1994年には、第1回目の援助物資活動「パケットアクション~支援を詰めて」をジョージアの人々に向けて行いました。2003年と2004年には、地震の被害を受けたパートナー団体の施設の復旧費用を資金援助し、医療援助活動を進めていきました。2005年、医療援助活動を、新たに外部組織「Union Healthy Children」に集積しました。その後、このジョージア現地パートナー団体と医療援助活動に加え、援助物資輸送活動を進めていきました。2016年と2017年には、現地での活動の安定を図るため、現地パートナー団体の事務所の改修工事と内部機器の費用を支援しました。

Japan・日本

ドイツ国際平和村の活動において、日本は特別な役割を担っています。1990年半ば、NHKがボランティアに関するテーマで取材をするために、マリオン・ズーア モイリッヒさんを通して、ドイツ国際平和村に連絡を取ったことから、日本とドイツ国際平和村との関係が始まりました。マリオンさんと彼女の会社メディアリサーチが、ドイツで取材する日本のメディアのコーディネートをしています。彼女は、NHKの撮影でドイツ国際平和村を訪れた数年後、「世界ウルルン滞在記」でもドイツ国際平和村を取り上げてもらえるようコーディネートをしてくれました。女優東ちづるさんが、平和村でボランティアをした様子が日本で度々放映され、日本でドイツ国際平和村の名前が知られるようになりました。

東さんは、ドイツ国際平和村の活動を原画展や読み聞かせを通して、日本で広めてくれました。「世界ウルルン滞在記」を通してドイツ国際平和村の活動を知った株式会社カタログハウスは、ドイツ国際平和村にとって、大きな支援者です。2002年以来、株式会社カタログハウスが発行する「通販生活」の中で、ドイツ国際平和村の活動を紹介してくれています。

また、1999年の初回の「世界ウルルン滞在記」放映後、多くの方が、日本からドイツ国際平和村の施設へやってきて、ボランティアスタッフとして活動しています。日本の中にもドイツ国際平和村を支援する人々のネットワークができました。

Kambodscha・カンボジア

タイ、ラオス、ベトナムに囲まれた国、カンボジアは、1953年、フランス領から完全独立を果たしましたが、その後何十年にもわたる内戦を経験しました。ベトナム戦争やクメール・ルージュ独裁国家(1975-1979)により、数えきれない悲しみがこの国を覆いました。国民保険の制度や技術器具は、まだ十分に整っていません。

1999年、ドイツに住むカンボジア保健省のアドバイザーが、ドイツ国際平和村にカンボジアにおけるプロジェクト活動への支援を要請しました。その1年後、第1回目の援助物資輸送が実施されました。2001年に、基礎健康診療所建設の計画が立てられ、2002年、パイロットプロジェクトとして、Samdek Ov Prek Thmeyに診療所が建てられました。以降、ドイツ国際平和村は、カンボジアに基礎診療所を建設し、都市から離れた地域への医療供給の改善に努めています。WHOの規準に基づく予防接種のプログラム、妊婦指導、衛生指導、それに出産立ち合いの他、軽度の病気や簡易な手術が、基礎健康診療所にて受けられます。

2004年には、プノンペン国立小児病院の救急病棟の設備支援を行い、2005年には、州都であるカンポット市に結核センターの建設を開始しました。患者の治療、患者の他の病気への感染予防、感染予防のための啓蒙プログラムを目的として運営されています。並行して、子どもたちへの医療援助活動と援助物資輸送子どもたちへの医療援助活動と援助物資輸送も行ってきました。

現在までに、カンボジア国内の38カ所に基礎健康診療所を建設しました。カンボジア国内の38カ所に基礎健康診療所を建設しました。カンボジアの地方では、人々への医療供給が十分ではないため、今後もこのプロジェクトを進めていきます。この基礎健康診療所建設プロジェクトに加え、プノンペンにおいて、障がいを持つ人、盲目の人へのプロジェクトを進めています。ドイツ国際平和村も資金援助をしています。盲目の青年たちがこのプロジェクトに参加し、田舎に住む家族たちの手伝いができるよう訓練を受けます。さらに、ドイツ国際平和村は、2016年以降、プノンペンのごみ山に住む子どもたちのための幼稚園プロジェクトを支援しています。2013年からは、バタンバン市のサーカスプロジェクトも支援しています。ごみ山のそばで生活しなければならない子どもたちにとって、運動能力や社会性を高められる機会となっています。

2014年、ラメアスヘックにある州立病院に助産院と小児病棟を建設しました。同年、チェンバック市の学校拡張建設にも資金援助しました。2018年には、プレイベン州Peam Chorの病院に分娩室、同州Sithor Kandalの病院に小児病棟を建設するための資金を支援しました。

 

ジャーナリストのウリ・プロイス氏によるカンボジア報告(2020年4月発行)はこちらから

Kirgistan・キルギス

キルギスは、中央アジアに位置しています。経済的に不安定で、ソビエト連邦時代から現在の社会的市場経済への移行で今でも苦しんでいます。産業は存在しません。ソ連からの補助が無くなり、医療供給は崩壊しました。他にも、民族紛争や汚職、収入の不公平な分配などの問題もあります。

ドイツ国際平和村は、2013年4月、キルギスの現地パートナー団体„Together for Health“と協力して援助活動をすることを決めました。同年、キルギスから一人目となる子どもが、ドイツで治療を受けるために渡独しました。それ以来、キルギスへ定期的に援助活動を行っています。現在では、キルギスでの現地プロジェクト活動の一環として、専門家による形成外科や整形外科手術がキルギスで受けられるようになりました。その手術などに必要な機器、例えば胃腸科系疾患の診断のための機器などを、ドイツ国際平和村は援助物資として届けています。

Rumänien・ルーマニア

ルーマニアは2007年にEU加盟国となりました。EUに加盟しましたが、ルーマニアの人々の生活は一向に良くなりません。家賃の高騰、食料品や医薬品の値上げに加え、高い失業率、貧困問題があります。医療供給も十分ではありません。

ドイツ国際平和村はこのような現実があるため、現在もルーマニアへの支援を続けています。1992年に子どもたちへの医療援助から始まったルーマニアへの援助は、現地プロジェクト活動としても広がりました。1994年、理学療法施設、整形外科用品修理工場がスンニコラウマーレ市で運営を開始しました。加えて、2011年には、児童施設の建設を資金援助し、その施設へ援助物資を届けました。以降は、主に医療機器、医薬品、衣類などの援助物資をルーマニアに届けています。病院や学校の送り迎えなどに使用するバスも資金援助しました。

Sri Lanka・スリランカ

英連邦内自治セイロンから1972年に完全独立したスリランカでは、1983年と1990年代半ばに、タミル人とシンハラ人の民族間の対立が激化しました。タミル人の独立国家を主張する過激なタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)への支持が高まりました。LTTEとスリランカ政府軍の衝突で、2009年の上半期だけでも、何千人もの一般市民が犠牲になり、20万人もの人が避難しました。約25年の時を経て、2009年5月18日、スリランカ政府軍がLTTEを制圧し、内戦が終結しました。

2004年12月26日、スマトラ沖地震によりスリランカを津波が襲い、4万5千人以上もの人々が津波の犠牲になりました。当時、ドイツ国際平和村は、スリランカの特に北部へ一刻も早く救済活動を行った団体の中の一つでした。

この津波被害があった直後から、スリランカ北部、北東部、そして西部で現地プロジェクト活動を新たに開始しました。1996年にすでに現地プロジェクト活動として建設されたナタンディアの整形用品工場を、敵対する民族の子どもたちが遊びや学びを通して相互理解を深められるイベントを開催してきました。2016年初頭に、引き継ぎをして、この現地プロジェクト活動は、現地の人々が自身で運営することになりました。

津波被害前の1991年と1992年に、ドイツでの医療援助を受けるため、合計3人の子どもたちがスリランカからドイツへやってきて、無事治療を終え、母国へと帰国しました。

Tadschikistan・タジキスタン

タジキスタンは、中央アジアの国々中で最も貧しい国で、多くの国民が十分な医療供給を受けていません。

1997年に内戦は終結しましたが、国民の3分の1が、現在も貧困層に属します。タジキスタンは国土のほとんどが山岳地帯で、たった7%のみが農業に適した土地ですが、国民の多くは農家です。

この国からは既に1994年より、ケガや病気を抱えた子どもたちが、治療を受けるために渡独しています。2005年以来、現地パートナー団体„Dechkadai Sulh Derewnja Mira“(平和村)と協力して、活動を行っています。2016年、新しくプロジェクト活動のための建物に資金援助をし、小規模なリハビリセンターも増設しました。コーカサス地方同様、タジキスタンへも、ドイツ国際平和村が毎年行っているパケットアクション活動「支援を詰めて送ろう」を通して、物資援助を行っています。

 

ドイツ国際平和村のタジキスタンでの活動報告(2019年10月発行)

Usbekistan・ウズベキスタン

ウズベキスタンは、中央アジアで最も人口が多い国で、1925年、ソ連統治下のウズベク・ソビエト社会主義共和国となりました。

1991年、ウズベキスタン共和国として独立しました。鉱工業と綿花栽培農業が主要産業になっています。2002年以降は、アフガニスタンとその周辺国への援助飛行の際、首都タシュケントを経由し、ドイツでの治療を受けるためにケガや病気を抱えたウズベキスタンの子どもたちが渡独するようになりました。

2003年以来、現地プロジェクト活動は、ウズベキスタン現地パートナ団体„Stiftung für eine gesunde Generation“(健康な世代のための基金)と協力して、行っています。2003年以降、ドイツ国際平和村は、ウズベキスタン国内で、口唇口蓋裂を持つ子どもたちの手術を行う際の資金援助をしています。2008年以降は、整形外科の手術、2011年以降は、形成外科の治療が必要な子どもたちへの援助をしています。2015年、現地プロジェクト活動として、心疾患の子どもの手術をウズベキスタン、またはインドで行うことができました。

Vietnam・ベトナム

東南アジアに位置するベトナム、1965年3月にこの国で勃発したベトナム戦争-アメリカによる軍事介入の結果-ここからドイツ国際平和村の歴史が始まりました。(もっと読む)

1975年4月、サイゴンの陥落により、北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結しました。翌年、南北ベトナムは再統一しました。戦時下では、エージェント・オレンジのような枯葉剤が使用され、長期間汚染という結果をもたらしました。その後、がん患者や新生児の先天性形成異常が多く見られるようになりました。

ベトナムでも現地プロジェクト活動を始めました。1973年、ダラット市に初めてのドイツ国際平和村援助による建物が建設され、その後ベトナム全土へ広まっていきました。ベトナムには、100以上の基礎健康診療所、学校が数か所、それに漁業訓練のための船があります。その上、ドイツ国際平和村は、ベトナムの医療制度には欠かせない、大きな病院とリハビリセンターも建設しました。ベトナムでは、現地プロジェクト活動が軌道にのり、今では、子どもたちがドイツに来ることなくベトナムで治療が受けられる制度が整いました。現地プロジェクト活動は、現在はベトナムの人々が運営と管理を全て独自で行っています。

ベトナムの平和村:

  • DaLat1:1990年7月  小児科病棟
  • DaLat2:1992年12月 義足作業場
  • DaNang:1992年12月 義足作業場
  • Thanh Xuan 1in Hanoi:1991年12月 小児科病棟
  • Thanh Xuan 2 in Hanoi:1996年4月 養護学校、職業訓練のための作業所6
  • Ho Chi Minh 1:1990年9月 小児科病院
  • Ho Chi Minh 2:1996年4月 診療所
  • Song Be:1991年12月 小児科病棟
  • Tay Ninh:1993年11月 小児科病棟
  • Hue:1995年9月 小児科病棟
  • Ha Tay:1997年 リハビリセンターと基本的な健康管理を含む障害を持つ子どもたちのための家。それぞれ違う州からの援助を得ている 'Friendship Village'と名づけられた大きな計画のうちのひとつです。

ベトナム・その他のプロジェクト:

  • 100軒以上の基礎健康診療所。 1991年、2つの学校の開校式
  • 1989年 Dai Loc地方で、3つの学校計画、ベトナムの漁業学校の船
  • 1988年7月 漁船「Hoa Binh-Peace」の運行