レポートテーマ:アフガニスタン

アフガニスタン: ケガや病気を抱えている子どもたちへの援助が困難に

写真:(左から)ヤン・イエッセン氏、ビルギット・ヘルムート、クラウディア・ペップミュラー。2021年8月18日フランクフルト空港到着時。

 

2021年8月9日、ドイツ国際平和村のスタッフ、ビルギット・ヘルムートとクラウディア・ペップミュラー、ジャーナリストのヤン・イエッセン氏がアフガニスタンの首都カブールに向けて出発しました。2020年のコロナ・パンデミック発生以来実施できていなかった、現地での子どもたちとその家族との面会をようやく行えるようになったからです。ドイツ国内ではコロナワクチンの接種が進み、人道援助のため海外から子どもたちをドイツへ受け入れることが可能となりました。今回は、現地アフガニスタンで面会をした後、ドイツでの治療が決まった子どもたちのビザ申請手続きをするために、一度8月16日の便でドイツへ戻り、ビザ発給手続きをし、8月31日にチャーター便で援助飛行を実施するという予定でした。

残念ながら、この計画は予定のまま、実施することができませんでした。子どもたちと家族との面会を行っていた週に、タリバンの首都制圧が進み、8月16日のドイツへの帰国便がキャンセルされました。この政権交代は、誰も予想できないほど急速に進みました。「カブール空港の状況を見たとき、予定していた路線便では帰国できないとすぐにわかりました。陸路での出国も、国境が封鎖されているため無理でした。ドイツ国際平和村の歴史上初めて、ドイツ軍の避難専用機で、アフガニスタンを出国するという事態になりました。」と現地入りしたスタッフが報告しました。この避難専用機は、ウズベキスタンの首都タシケントに向かい、そこから他の航空機によって、スタッフたちは8月18日早朝フランクフルト空港に到着しました。

2021年8月26日付で、NRZ新聞(Neue Ruhr Zeitung)にヤン・イエッセン氏による報告記事が掲載されましたので、紹介します。

ドイツ国際平和村は、以前のタリバン政権の時代でも援助活動を続けた援助団体です。今回も継続します。

ドイツ国際平和村の記録保管所に、1996年から2001年のタリバン政権の指導者オマル師(2013年死去)による署名がなされた援助活動を許可する旨の書類があります。第一タリバン政権発足から約25年後、タリバンは再度政権を握りました。ドイツ国際平和村は、新体制・新環境のアフガニスタンの中で、どのように人道援助活動を行っていくかという局面に立っています。

回想:

2週間前の火曜日(2021年8月10日)、ドイツ国際平和村のスタッフ、ビルギット・ヘルムートとクラウディア・ペップミュラーがカブール空港に降り立ちました。第84回目のアフガニスタンへの援助を行うためです。ケガや病気を抱えた子どもたちへドイツでの治療の機会を提供するために、援助飛行の前に現地入りして、ドイツ各地の協力病院での治療が可能な子どもたちと面会します。この面会には、通常約600人ほどが訪れ、そのうちの約100人が面会の約2週間後に、ドイツへ向かいますが、今回は通常とは、まったく異なりました。

スタッフがアフガニスタンに到着した時には、アフガニスタン各地で戦闘が行われていました。4州の州都がタリバンによって掌握されていました。その4州のうちのひとつ、クンドゥズ州はドイツ連邦軍が12年間駐留していたところです。首都カブールはまだ静かな状況でした。交通状況はいつものように変わらず渋滞しており、店はいたるところで開店していました。しかし、避難してきた人々が次々に公園や広場に集まり、その数が次第に増え、地方の戦闘状況が悪化していることは感じ取れました。カブール市東部に位置するアフガニスタン現地パートナー団体の建物の一室で、子どもたちの面会を進めているスタッフにとって、状況の悪化は歴然でした。面会にやってこれた子どもたちとその家族は、通常の面会時よりかなり少ない数でした。

「アフガニスタン各地で戦闘があり、地方に住む家族にとって、カブールまでの移動が困難です。」とマルーフ医師が語りました。胸のあたりまで伸ばした印象的な髭を持つエネルギッシュなマルーフ医師は、ドイツ国際平和村がアフガニスタン援助を開始した頃から、現地での業務に尽力してくれています。ドイツ国際平和村スタッフがカブール入りした時は、彼もまだ状況を静かに見ていました。「タリバンが侵攻していることは明らかですが、経済的また戦略的に重要な、例えば、ヘラート、ナンガルハール、カンダハール、バルフといった都市は、それほどすぐにタリバンの手には落ちないでしょう。」 と語っていたマルーフ医師ですが、実際には、彼の予測とは反する状況になってしまいました。

カブールから離れた西部のヘラート、北部のクンドゥズやバルフからカブールにやってきた家族は、道中のタリバンのチェックについて語っていました。乗車していたバスがタリバンよって停止を求められバスの中に入ってきたり、戦闘地帯を避けるために大きく迂回しなければならなかったり、道端で亡くなっている人を見たりしたそうです。一方で、タリバンに何かされたわけでもなく、普通に通してくれたといった報告もありました。どれをとってもドイツ国際平和村にとっては重要な情報で、今後どのように活動を進めていくのかという問いへの道標になります。

1988年からアフガニスタン援助を継続

ドイツ国際平和村は、1988年から継続してアフガニスタンへの援助活動を行っています。ムジャヒディーン時代、1996年にタリバンがカブールを制圧した時、それからの5年間も援助は続いていました。「どの時期もドイツ国際平和村の活動の中心には、子どもたちがいました。」とペップミュラーが語ります。

ビルギット・ヘルムートは、90年代、当時の代表ロナルド・ゲーゲンフルトナーとともにアフガニスタンへ現地入りしていました。現地パートナー団体の赤新月社のゲストハウスは、たくさんの草木と花に囲まれた中にあります。そのゲストハウスで、ビルギット・ヘルムートは次のように語りました。「その当時、カブール空港に代表ゲーゲンフルトナーといたとき、空港内の天井が崩れ、武装したムジャヒディーンたちが上の階から落下してきました。彼らは、そのまま滑走路へ向かい、そこで銃の打ち合いを始めました。」 当時、最終的にタリバンが政権を掌握しましたが、1997年初頭、長く続いた交渉の末、イスラムの評議会であるカンダハールシューラによって、ドイツ国際平和村の活動継続が承諾されました。タリバンにも、ケガや病気を抱えた子どもたちがいます。この承諾は、タリバンにとっても必要なことでした。

それから、約25年が経過し、権力争いは急激な速さで進み、カブールまで押し寄せてきました。8月15日(日)、マルーフ医師が、カブールの動物園にいるタリバン兵の写真を携帯電話上で見せてくれました。マルーフ医師もアフガニスタンの友人たちも皆、タリバンたちがあまりの速さで進攻してきたことに驚きを隠せない様子でした。マルーフ医師は、「自分はアフガニスタンに残る。ここは、私の国だから。」と言いました。マルーフ医師は、自分の身は守られていると自覚しているようでした。カブールの町中を走行している際、若いタリバン兵はマルーフ医師に謹んで挨拶をしていました。マルーフ医師は、タリバンに多いパシュトーン民族に属しています。

アフガニスタンの友人に励まされるドイツ人スタッフ

ペップミュラーとヘルムートは、帰国便がキャンセルになり、避難便に乗れるかどうかの連絡を待つしかありませんでした。8月17日(火)、ようやく連絡を受け、ドイツ軍の避難専用機でアフガニスタンを出国しました。アフガニスタンの友人たちは、スタッフと常に一緒に過ごし、彼らが不安にならないように、少しでも安心させようとしてくれました。それに、面会をしてドイツ行きを決めた子どもたち27人の出国が可能になるよう尽力していました。

スタッフたちがドイツへ戻ってきました。ドイツ国際平和村ではすでに協議がされていました。8月31日に予定しているチャーター便は、子どもたちをドイツへ連れてくるために飛行ができるのか?ドイツ国際平和村の活動はどうなるのか?数日後、決断がおりました。カブール空港とその周辺の危険で不安定な状況により、チャーター便は延期となりました。どのくらいの期間を延期するのかはわかりません。「ケガや病気を抱えた子どもたちの治療を待たせなければならず、心が痛みます。しかし、ドイツ国際平和村は約束します。可能な限り早く子どもたちへ医療援助ができるように尽力していきます。」と現代表ビルギット・シュティフターが言います。二度目のタリバン政権下でも、ドイツ国際平和村の人道援助活動は続きます。

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