東日本大震災から10年

二つの視点から

~①元平和村ボランティアスタッフからの報告 Michiru ~

2011年3月11日当時、長男を出産したばかりで、病院に入院中でした。震災直後は情報が絶たれていたため、津波のことも原発事故のことも知りませんでした。ただ日々の生活と生まれたばかりの子どものことで頭がいっぱいでした。当時地震で、近所には全壊・半壊した家々がたくさんありましたが、現在はほぼ修復されています。

震災当時、雪の降る寒い日が続いていたので、暖房がなく大変でした。赤ちゃんの体が冷えないよう、毛布を何枚も重ねてかけていました。シャワーが使えず、衛生状態が悪いことも気がかりでした。また、オムツ、粉ミルク、おしりふきなどはなかなか手に入りませんでした。他県に住んでいる親戚が車で届けにきてくれて本当に助かりました。
2月にも大きな地震がありましたが、すぐに家族、友達と連絡をとり無事を確認しました。揺れが長く強かったので、皆震災を思い出し怖かったそうです。一部家屋の倒壊やガスがとまった地区もあったそうですが、今回は幸い津波もなくそれほど大きな被害はありませんでした。
当時のことは今でも鮮明に覚えていますし、毎年息子の誕生日を迎えるたびに震災のことを思い出します。家族、友人が無事であったことを感謝しつつ、亡くなった方々の分まで精一杯生きないと、と思っています。またあのとき私達を心配し援助してくれた親戚や友人への感謝も忘れないようにしたいです。

~②平和村関係者からの報告 Yasu ~

僕は、2011年3月11日は福島県須賀川市にいました。小学校5年生の自分は、ちょうどいい下校の時間だったので、教室で周りの生徒達と帰る準備をしていました。震災当初は、全くわけがわからない状況でした。震災の日は、母親の車に乗せられて家に帰りました。その道中、壊れたコンクリートの塀や、家の瓦などが地面に転がっているのを見ました。それから毎日ニュースを見続けました。

正直、当時は事の深刻さをはっきりと理解することはできませんでしたが、親の必死な様子や悲しそうな表情を見て、初めて自分たちは今とても危険な状態の中生活をしているという事がわかりました。

当時、家族と福島県の中通りに住んでいたので、津波の心配はしなくても良かったのですが、毎日続く余震と「自分が今、放射性の高い場所にいるかもしれない」という見えない恐怖と戦う日々で、精神的に辛かったです。震災直後に家に帰ると、家中が、本や食器、写真のたくさん入ったアルバムなどで床が一面埋め尽くされていて、とても歩けるような状況ではありませんでした。余震が続く中、何日もかけて掃除しました。トイレやお風呂も、なるべく少ない回数ですませるように言われました。当時水道がほとんど止まっていた状況だったので、一日中お風呂場に水を少しずつためて、その水をバケツですくって、その水で毎回トイレを流さなければならなかったのを覚えています。最初の数日は、お父さんが仕事の帰りにやっとの事で買ってきたカップヌードルなどが主な夕ご飯でした。

震災当時のYasu

昔も今も変わらず福島県が大好きです。自分の事を紹介するときは、アメリカ(現在の所在地)でも日本でも必ず福島県出身だと欠かさずに言います。福島が好きだからこそ、今の福島の様子がどうなっているのかをより多くの人に知ってもらいたいと思います。アメリカで自分の出身地を言うと、必ず「今は安全なのか?」や、「自分は被爆者か?」などの質問をされます。その度に毎回福島は今は安全なところであると言う事を伝えていますが、今後どうしたら世界中のより多くの人たちに福島の現状を知ってもらえるか、という事を毎回考えさせられます。それと同時に、世界中のどこまで行っても震災の記憶から自分は逃れられないという現実を噛み締めて、さらに自分はそこからどう震災と向き合っていくべきかを考えて生活をするようにしています。

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